2010年3月 2日
かまどの歴史的背景
もっとも単純な形の炉は、石を火の周囲に積み上げた物で、今日でもキャンプなどの飯盒による調理などでおなじみだが、既
に石器時代にはそのような炉が登場していたと見られ、当時の遺構にその痕跡が見られる。日本では、古墳時代前期までは、
地床炉が用いられるケースが多く、弥生時代後期から古墳時代前期までは炉の上におかれた器台のついた台付甕が用いられて
いた。かまどについては、弥生時代終末期に独自発生した、あるいは、朝鮮半島から技術が伝播したという説もあるが、『古
事記』などの仁徳天皇の説話にみられるように古墳時代中期に、いわゆる登り窯(窖窯)に似た構造から、おそらく須恵器の焼
成技術とともに伝来したと推定されている。この時期に朝鮮半島からの伝播をうかがわせる遺物としては、「韓竈(からかま
)」と呼ばれる移動式の模型のような「カマド」が遺跡から出土することで、まさしく古墳時代中期である5世紀に渡来人に
よって持ち込まれたと考えられている。「韓竈」には、上に甕と甕にはめ込むようにして底面に孔を空けた蒸し器である甑が
重ねられる構造になっている。これは、6世紀以降に、竪穴式住居の北側や東側の壁面に設けられる「カマド」の構造と同じ
であり、住居跡に設けられた「カマド」は、粘土をドーム状にもりあげ、住居の内側に焚き口、「カマド」の天井部に煮沸具
である土師器の甕に、はめ込むようにして甑が置かれる形になっている。「カマド」の「ソデ」 と呼ばれる部分には、石、
伏せた土師器の甕、瓦などが用いられ、「カマド」中央部に置かれた甕をささえるための支脚にも粘土質のものや長い形の石
や伏せた須恵器の坏などが用いられることもあった。
奈良時代、平安時代には北海道にまで伝来したかまどには、屋外へ煙を排出するための煙道が発達していた。しかし庶民の住
居が竪穴式住居から掘立柱建物に移行するにしたがい、煙道が失われた。かまどは焚き口と鍋釜をしかける穴のみが設けられ
た構造となり、薪の燃焼で生じた煙は焚口から屋内に排出され、屋根裏を通って屋根に設けられた「煙出し」の穴から屋外に
吐き出されるようになった。高温多湿な気候の日本において茅葺や樹皮葺きの屋根を腐朽から守るには、屋内に煙を吐き出さ
せ、屋根材を「燻製」にして防腐効果を狙う必要があったためである。煙突が日本のかまどに復活したのは、西洋文明が大規
模に渡来した明治以降になってからだった。
調理用の常設の炉が世界各地に、その土地の気候・風土を反映した様々な形態をもって、古くから存在している。南西日本で
は、調理はほぼかまどを用いて行われていた。沖縄地方では、竈はその祖形である「三つの石を並べた形」からそれほど発達
することはなかった。三つの石を並べた上に「シンメーナービー」と呼ばれる中華鍋に似た形の大鍋を載せ、朝に主婦が火を
焚きつけて大量のンム(サツマイモ)を蒸しあげる。蒸したンムに小魚の塩辛や味噌汁を沿えて食事とした。三つの石の間を
泥で塗りこめて塞いだ「ヤマト式」と呼ばれる竈が普及したのは、明治以降だった。近畿地方の旧家には大小の竈を4,5個連
ねた複合かまど「おくどさん」が見受けられる。そのうちで小さなかまどは日常の炊事に用い、端にすえられた大型かまどは
、ハレの炊事にのみ使用する。一方、東日本ではかまどが一度は普及しながらも、囲炉裏が再度卓越し、竈の使用はすたれて
しまったところが多かった。緯度が高いために冬が長く、夜が長い東日本、北日本では、暖房用、照明用として家の中央の囲
炉裏で常時火が焚かれている。それと別にかまどを設けて調理に使うよりも、炉の火で炊事を行ったほうが燃料の浪費が抑え
られるためである。岩手県の山村では、炊事はすべて囲炉裏で行い、飯も釜ではなく鍋で炊く。かまどは「とな」と呼ばれる
、牛馬の飼料を煮る目的にのみ使用される。北海道では、7世紀ごろの擦文時代に一度はかまどが普及したものの、次第に廃
れた。後のアイヌ民族の民家チセには、大きな囲炉裏のみでかまどが存在しない。調理はシュワッツ(自在鉤)で吊られた鍋
で行う。行事や野営などで野外で炊事する際も、石で鍋を支えようとはせず、三脚から鍋を吊る。
『ウィキペディア(Wikipedia)』引用
今でも簡易型のかまどが炊き出しなどで利用されるようです。
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