2008年03月28日
明智光秀かっこいい
本当に興味があります。この人の人生ってなんだかとても神秘的ですよね。
西近江で一向一揆門徒と戦ったとき、明智軍の兵18人が戦死した。その後光秀は戦死者を弔うために、供養米を西教寺に寄進した。西教寺には当時の状態のままで寄進状が残されている。他にも光秀は戦で負傷した家臣への見舞いの書状が多数残されている。このような家臣への心遣いは、他の武将にはほとんどみられないものであった。こうした家臣を思う気持ちから、光秀の家臣は堅い忠誠を誓ったとされる。実際に、光秀の家臣団は、本能寺の変でも一人も裏切り者を出さず、山崎の戦いで劣勢にも関わらず奮戦したといわれている。山崎の戦い敗戦後の光秀を逃すために、家臣が二百騎ほどで身代わりとなって突撃を行ったという記録がある。しかし、光秀が信長を討とうとしている事はごく一部の家臣しか知らなかったとされる(本城惣右衛門覚書)事やその後の支持者が殆どいない、後述の自軍の軍規の乱れ等から、むしろ兵の大部分にとっては信長への信頼の方が篤かったが[2]、何も知らされずに信長を討ってしまった事で光秀が共犯者に仕立て上げ、引くに引けない状況を作り上げるという光秀の策略であったとする意見もある。
天正3年(1575年)の叙任の際に姓と官職を両方賜ったのは光秀・簗田広正・塙直政の三人だけである。この時点で既に官職を賜っていた柴田勝家・佐久間信盛は別としても、丹羽長秀・木下秀吉などより地位が高かったとみていい。当時織田家中で5本の指に入る人物であったことは疑いなく、簗田・塙は譜代家臣であることから考えても信長の信頼の厚さがうかがえる。
諸学に通じ和歌・茶の湯を好んでいた文化人であったこと、また内政手腕に優れ、領民を愛して善政を布いたといわれ、現在も光秀の遺徳を偲ぶ地域が数多くある。
光秀は信長を討った後、上洛すると京周辺の朝廷や町衆・寺社などの諸勢力に金銀を贈与した。また、洛中及び丹波の地の地子銭(宅地税)の永代免除という政策を敷いた。これに対し正親町天皇は、変のあとわずか7日間の間に3度も勅使を派遣している。ただし、正親町天皇も老獪であり、勅使として派遣したのは吉田兼和であった。この兼和は朝廷の官位を受けていたものの、神官であり、正式な朝臣ではなかった。このあたりに、光秀が朝廷からも冷ややかな目で見られつつあったことがうかがえる。
主君である織田信長を討った行為は、当時から謀反として非難の声が大きく、そのために江戸時代では逆賊として評された。その理由として、本能寺にあった信長軍が100名ほどであったのに対し、光秀は1万3000人の大軍で襲った上、ほとんど無防備だった本能寺を襲撃した「闇討ち」に等しい行為だったためであり、下克上の中でも最も卑劣な行為に属するためである。また、変後に徳川家康に伊賀越えという危難を味あわせたこともあるとされる。この光秀の行為のために生き残った娘のガラシャは、「逆賊の娘」として苦難の日々を送ったようである。
引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
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